或る司書の話(修羅♂)
それは月明かりのまぶしい、満月の夜。
大聖堂の高いステンドグラスを通して、様々な色に彩られた淡い光が石畳に落ちる。
天井にまで届きそうな書架の並ぶ一室。一冊の大きな本が読書台に広げられていた。
「司書よ。我と話がしたいとは酔狂な男だ」
「......そうかもしれませんね」
大きく開いた本の上。ぼんやりと何かが浮かんでいる。
それは、巨大な蛇のようである。
蛇はチロチロと赤い舌を時折覗かせながら眼下の人間を物珍しげに見つめる。
青と白の法衣、夜の闇に融け込みそうな蒼い髪。歳は20か30か。
「我を喚ぶということは『取引』でもしようというのか?」
「ええ、......といっても貴方を連れ出すことは出来ませんよ?」
静かな微笑みを保ったまま蛇を見上げる蒼い双眸は表情と穏やかな口調と裏腹に真剣な気配が漂う。
「ほほう」
蛇は目を細め、笑う。
「外界には出せぬが取引はしたいと?ではお前は我に何を差し出す?そして何を望む?」
「僕に貴方の知識を。代わりに僕の『時間』を差し出しましょう」
ほう、と蛇は音も無く宙を這い、男の眼前に顔を近づける。
「我に時間を差し出せばお前は人では無くなるぞ?」
「知っていますよ。だから貴方を喚び出したのです」
シュルル、と蛇の口元から発せられる音に怯む様子もなく、男は微笑を崩さない。
暫し男の顔を覗き込むように見ていた蛇は大きな口を開け、カラカラと笑い声を立てる。
「ほほう!お前の父は再三に渡り我を拒み続けたがお前は逆だと言うのか。同じ聖職者でありながら実に面白い!我はお前達からすれば悪魔と呼ばれる存在だぞ。聖職者が悪魔の甘言に耳を貸し、取引をするというのか」
ひとしきり笑った蛇は再び男を見る。
「良かろう、取引成立だ。この<尾を食む蛇の書>の知識を与えよう。そうすればお前はこの禁書庫の総てを知ることが出来よう。代わりに我はお前の時間を貰い受ける。お前は死ぬことも適わず老いることもない。永久にこの書庫に縛られる魔性となるのだ」
鎌首をもたげ、シュッという音と共に男の喉元に噛み付く。
チクりとした痛みに一瞬眉をひそめた男だが、振り払うこともなく成り行きを見守っている。
程なくして蛇は口を離す。
「契約は完了した。その喉にある跡が印だ」
男は蛇が牙を突き立てた喉に触れる。小さな穴が二つ、開いている様子が指先を通じてわかった。
「確かに。特段変化を感じない物なのですね」
そう答える男の声に微かな安堵の色が見える。
「化物に変ずるとでも思ったか。そうしてやっても良かったが、面白いものが見れたのでな、そのままの姿を残してやった」
「......悪魔と呼ばれる割には優しいのですね。一体何を見たのやら」
皮肉交じりの言葉に軽く鼻を鳴らす蛇。
「記憶と時間は緩やかながらも繋がっている。お前の考えを垣間見た。実に滑稽だ」
微かに男は表情を変えたが、すぐに元の微笑に戻る。
「......悪魔にはわからないでしょうね」
「我は良い玩具と話し相手が増えれば良いのだ。精々我等を守れよ」
クツクツと喉の奥で笑い、蛇は本に吸い込まれるようにして消えた。
本を閉じ、書架にしまい込む。書庫を出る手前、男は小さくため息をつく。
「僕なりに考えたのですよ」
そう言って目を閉じる。
「養父(ちち)の責務を僕は引き継いだ。でも、僕は教会の思惑で次の世代に僕の責務を背負わせたくはないのです」
[だから己の永遠を望んだという事か。人間とはやはり滑稽な生き物だ]
耳元に響くのはあの蛇の声。一瞬辺りを見回すが、その意味を即座に理解する。
「ああ、知識を得るというのは......意識を共有する、という事ですか」
[但し、この書庫にいる間に限られる]
「そうですか......。滑稽でも構いませんよ。僕は僕なりに考えて選んだことです」
[人と同じ時を生きることは叶わぬとしてもか?]
「それは、知識の蛇としての知識欲ですか? ......そうですね」
男は目を閉じ、そして遠い何かを見るように天井を見上げた。
大聖堂の高いステンドグラスを通して、様々な色に彩られた淡い光が石畳に落ちる。
天井にまで届きそうな書架の並ぶ一室。一冊の大きな本が読書台に広げられていた。
「司書よ。我と話がしたいとは酔狂な男だ」
「......そうかもしれませんね」
大きく開いた本の上。ぼんやりと何かが浮かんでいる。
それは、巨大な蛇のようである。
蛇はチロチロと赤い舌を時折覗かせながら眼下の人間を物珍しげに見つめる。
青と白の法衣、夜の闇に融け込みそうな蒼い髪。歳は20か30か。
「我を喚ぶということは『取引』でもしようというのか?」
「ええ、......といっても貴方を連れ出すことは出来ませんよ?」
静かな微笑みを保ったまま蛇を見上げる蒼い双眸は表情と穏やかな口調と裏腹に真剣な気配が漂う。
「ほほう」
蛇は目を細め、笑う。
「外界には出せぬが取引はしたいと?ではお前は我に何を差し出す?そして何を望む?」
「僕に貴方の知識を。代わりに僕の『時間』を差し出しましょう」
ほう、と蛇は音も無く宙を這い、男の眼前に顔を近づける。
「我に時間を差し出せばお前は人では無くなるぞ?」
「知っていますよ。だから貴方を喚び出したのです」
シュルル、と蛇の口元から発せられる音に怯む様子もなく、男は微笑を崩さない。
暫し男の顔を覗き込むように見ていた蛇は大きな口を開け、カラカラと笑い声を立てる。
「ほほう!お前の父は再三に渡り我を拒み続けたがお前は逆だと言うのか。同じ聖職者でありながら実に面白い!我はお前達からすれば悪魔と呼ばれる存在だぞ。聖職者が悪魔の甘言に耳を貸し、取引をするというのか」
ひとしきり笑った蛇は再び男を見る。
「良かろう、取引成立だ。この<尾を食む蛇の書>の知識を与えよう。そうすればお前はこの禁書庫の総てを知ることが出来よう。代わりに我はお前の時間を貰い受ける。お前は死ぬことも適わず老いることもない。永久にこの書庫に縛られる魔性となるのだ」
鎌首をもたげ、シュッという音と共に男の喉元に噛み付く。
チクりとした痛みに一瞬眉をひそめた男だが、振り払うこともなく成り行きを見守っている。
程なくして蛇は口を離す。
「契約は完了した。その喉にある跡が印だ」
男は蛇が牙を突き立てた喉に触れる。小さな穴が二つ、開いている様子が指先を通じてわかった。
「確かに。特段変化を感じない物なのですね」
そう答える男の声に微かな安堵の色が見える。
「化物に変ずるとでも思ったか。そうしてやっても良かったが、面白いものが見れたのでな、そのままの姿を残してやった」
「......悪魔と呼ばれる割には優しいのですね。一体何を見たのやら」
皮肉交じりの言葉に軽く鼻を鳴らす蛇。
「記憶と時間は緩やかながらも繋がっている。お前の考えを垣間見た。実に滑稽だ」
微かに男は表情を変えたが、すぐに元の微笑に戻る。
「......悪魔にはわからないでしょうね」
「我は良い玩具と話し相手が増えれば良いのだ。精々我等を守れよ」
クツクツと喉の奥で笑い、蛇は本に吸い込まれるようにして消えた。
本を閉じ、書架にしまい込む。書庫を出る手前、男は小さくため息をつく。
「僕なりに考えたのですよ」
そう言って目を閉じる。
「養父(ちち)の責務を僕は引き継いだ。でも、僕は教会の思惑で次の世代に僕の責務を背負わせたくはないのです」
[だから己の永遠を望んだという事か。人間とはやはり滑稽な生き物だ]
耳元に響くのはあの蛇の声。一瞬辺りを見回すが、その意味を即座に理解する。
「ああ、知識を得るというのは......意識を共有する、という事ですか」
[但し、この書庫にいる間に限られる]
「そうですか......。滑稽でも構いませんよ。僕は僕なりに考えて選んだことです」
[人と同じ時を生きることは叶わぬとしてもか?]
「それは、知識の蛇としての知識欲ですか? ......そうですね」
男は目を閉じ、そして遠い何かを見るように天井を見上げた。